5年前の記憶〜闘病記

2002年3月20日

この5月で5年経ちます。

癌の手術を含め半年の入院生活から5年経ちました。
癌はその治療から5年生存したことで一応完治とされます。
末期癌から生きて帰れました。

この生きているという事実自体、不思議でしょうがありません。

とにもかくにも感謝、感謝です。
すべてに感謝しております。

病気と音楽というテーマで少しずつ書いていきます。


3月22日

 その日は突然やって来ました。
97年11月、関内の事務所に戻る途中右背中に激痛が走り、道端にうずくまってしまいました。
5メートル歩いてはしゃがみ込みまた歩いてはしゃがみ込む。5分で戻れるところを30分ぐらいかけ事務所に戻りました。
背中を丸めトイレに入りましたが、その時尿がかなり濁っていたのを憶えています。
暫く横になっていましたが徐々にトイレの回数が増え、それに伴い尿の色も変わってきました。
そしてそれは赤い色と変化してきました。
しかも排尿時には激痛を伴いました。
夜5分おきにそれは来ました。
一睡もせず朝を迎えましたが、その時は膀胱炎ぐらいだろうと考えていました。
薬局で膀胱炎の薬を買って飲みましたが全然症状は変わりません。
(しかもサックスアンサンブルのリハーサルは間近に迫り、リペアの楽器は何本も溜まっています。)

今日一日様子を見て症状が変わらなければ病院へ行こう。。。
そう考えはじめていました。
もうトイレは血で生臭くなり始めていました。

その日の夜も一睡もできませんでした。
朝7時タクシーで横浜市大病院へ行きました。
早く診てもらうために2時間前から並ぶのです。しかし30分に1回はイヤなトイレに行かなくてはなりませんでした。

今でも考えるのですが何故市大病院へ行ったのでしょうか。
この病院を選んだのが(結果論ですが)僕の幸運の始まりだったような。。。
なぜならたまたまこの病院の先生が僕のサックスのお弟子さんだったからです。
麻酔科のM先生、そして奥様のW先生。
感謝してます。

つづく。

3月24日
9時になり泌尿科の診察が始まりました。
若い医師にこの2日間の様子を伝えたところ、症状からして腎臓結石の疑いがあると
の事。
早速尿検査とレントゲン検査を行いました。
レントゲンの結果はすぐ出ました。
確かに右腎臓に数個の結石が映し出されていたのです。
治療として結石を溶かす薬と痛み止めの薬がでました。
「3週間後に再びレントゲンを撮りましょう。」と医師に言われましたが、挨拶をし
て診察室を出る間際にこうも言われました。
「他の病気の疑いもあるので。。。」
えっ!と思いましたが結石さえ溶けるか排尿時に出れば問題ないという気持ちが強
く、医師の言葉を深く考えませんでした。
以前やはり結石で病院へ行き利尿剤で治った経験があったのです。

しかし薬を飲んでも血尿は止まりませんでした。
そんな中リハーサルやリペアをこなしていきました。

1週間ぐらいしたら右の腰痛は軽くなりはじめました。
でも他の症状はいっこうに良くなりません。それどころか急ぎの用事で駆けたりする
と下腹に異常な痛さを感じるようになりました。
医師の「他の病気の疑いもある」という言葉が急に頭をよぎりました。
そこでかなり古い本ですが 
79年婦人生活6月特大号付録 家庭の医学大事典
を覗きました。
これは今でも良くできた本だと思っています。
死んだ母のものでしたがそういえば母もこの本をよく読んでいました。
母は直腸癌でした。

3月27日
 泌尿器の病気の項目、現在の症状がどういう病気なのか調べました。急性膀胱炎、
慢性膀胱炎、前立腺炎、腎臓結石、膀胱結石、尿管結石、
以上がその症状から考えられる病気でした。
そのうち尿管結石は以前経験したことがありました。

レントゲンから分かるように腎臓結石であり、結果として膀胱結核となりその症状は
まさに今の自分です。
治療として化学療法が非常に有効であると書かれており、確かに抗生物質がでまし
た。
でも薬が効いたとは思えません。
多少症状は軽くなったとはいえ、腰の重い痛さ、トイレの近いこと、濃い色の尿はま
だおさまりません。

その他疑わしい病気でもどこか違います。
熱があるわけでもないし。。。

しかし医学書を読みながら小さかった不安がどんどん大きくなっていく何か。
というよりも最初から考えたくなかったのです。
死んだ母の病気も大量に出血を伴うものでした。
母の看護を弟と1年してきましたがその病気の凄さはイヤと言うほど知っていまし
た。
その考えたくない病気は悪性腫瘍、癌です。

母もそうですが大事な友人もこの病気で亡くしています。
田中保積、パーカッションプレーヤーです。
(佐藤允彦トリオ、沖至トリオ、ツトムヤマシタバンドなどで活躍。彼はぼくを音楽の道に
引っ張ってくれた恩人です。)

癌イコール死。
癌を考えるとこれしかでてきません。

でもやはり読まなくてはいけない。
癌じゃないかもしれないから。
ページを開きました。
最後の項目、 癌(悪性腫瘍)虎ノ門病院各科部長執筆
腎臓及び泌尿器の癌
今でもこの項目の503〜506ページは何回も読んだ為変色してます。
腎臓癌の症状
そこには何の前ぶれも無く、突然に真っ赤な尿がみられ、数回もしくは数日後にまた
卒然としてとまる。
しかしこうも書いてあります。いたみを伴ったり、尿の回数が多くなったり、熱がで
ることはまずない。

違う。これじゃない。
ほっとしました。
やはり腎臓結石だ。

次のページは膀胱癌について書かれています。


4月1日
 無症候性血尿(腎臓癌の項)で、あるいはこれに続いて膀胱炎のような症状があっ
たら、膀胱癌と考えられます。
血尿はほとんどすべての場合にみられ、その特徴は腎腫瘍の血尿とまったく同様で
す。
癌が出来てから長く経ちますと膀胱炎を伴いますので、排尿の時の痛みとか、排尿回
数の増加をみることがあります。

。。。。。

何回も読み直しました。

3週間がすぎ病院への再診の日がきました。
血尿はようやくおさまりましたが、下腹部や腰の悪魔的な痛さはますます激しくなる
ばかりです。

腎臓結石の様子を見るためレントゲン検査を行いました。
結果右腎臓結石の陰は消えていました。

若い医師は「細かい検査をする必要がある。その為には市大病院福浦への紹介文を書
くが?」と事務的にいいました。
僕は断りました。
本日の結果がどうでようと、サックスの生徒でもあるI医師に相談しようと何日か前
から決めていました。

これはもう普通の病気ではないなと気づきはじめていました。
癌かもしれない。
膀胱癌。

4月2日
 I先生は月に1〜2回レッスンに来ました。
サックス以外の趣味として手品も上手で、一緒に養護施設へ手品師として慰問にも
行った事もあります。
奥様のW先生も眼科医として優秀でバイオリン演奏や絵がお上手な方です。
横浜市大病院で勤務されていた先生は、僕が電話で用件を伝えるとその夜来てくれま
した。
今までの経過を伝えると、すぐに細かい検査を受けた方が良いということで、横浜市
大病院福浦を紹介してくれました。
横浜市立大学医学部付属病院福浦は特定機能病院とされ、紹介という形で受診するの
が原則でした。

JR新杉田から無人モノレールで約20分。
市大病院駅改札から直接病院の通路につながり受付へと進む便利なつくりでした。
隣の駅は金沢八景島シーパラダイスです。
受付をすませ3階泌尿器科待合室で待つこと1時間、名前を呼ばれ診察室へ入りまし
た。
そこには髭の似合う、しかし目つきの鋭いダブルの白衣を着た医師が座っていまし
た。
現在教授、当時助教授のK先生でした。

最初の異変から約一月がたち12月に入っていました。

この一月の様子を伝えるといきなり「膀胱鏡検査!」と言われ、うむをいわさず検査
がはじまりました。
この時の恥ずかしさと痛さは忘れません。
しかもこの時から総てが始まったのです。

 膀胱鏡検査の結果はすぐに出ました。

「膀胱内におできみたいなものがある。」
「それは癌なのですか?」
「腫瘍でも良性と悪性とがあるがまだ分からない。その他にもっと検査をする必要がある」
「先生はプロ中のプロなのですから、膀胱鏡検査だけで癌かどうか分からないのですか?」
「うーん、ただ君のような若い人が膀胱癌というのも考えづらいし。だからもっと検査をする必要がある!」
こんなやりとりだったと記憶しています。以外と冷静に結果を聞いていました。

そして幾つかの検査の日程を効率よく作ってくれました。
そのすべての検査の結果報告は10日後に出るという事になりました。
帰り際軽い安眠剤を看護師から渡されました。
「眠れないときには飲んで。睡眠不足で体力が落ちると大変だから」

その夜からすべてが空しくなりました。もう演奏することは出来なくなるだろう。。。。
毎日普通に暮らすことがどんなに幸福なことか。

やっと独立して軌道に乗り始めた仕事、竹内直とのリリースしたばかりのCD。。。。

昔の録音を聞いては泣き、テレビの深夜映画を見ては泣きました。
生きているというこの日常的な事が、どんなに素晴らしい事だったのか。

死が確実に近づいている。

検査を受けながら10日間泣き、恨み、ぐちりまくりました。
仕事も手につきませんでしたが、どうにか納期の迫ったテナーのオーバーホール1本を終わらせました。
これが関内時代の最後の仕事になりました。

明日結果が出るというその夜、久々にウインドジャーマーに行きました。
ここは死んだ安井 陽さんがアルトを吹いていた店です。
(安井さんは横浜ジャズ物語という本にもよく登場されますが、渡辺 貞夫さん、アキヨシトシコさん達が横浜でジャズを若い時演奏されていた時のお仲間です。大先輩ですが友人のようにつき合ってくれました。
よく家で食事をしてから演奏に出かけられました。)

ハウスバンドのベーシストに病気の事を簡単に言いました。最後のセットでの演奏On The Sunny Side Of The Streetもうどうしょうもないほど泣きました。

しかし泣き終わった後何か今までと違う。
怖さとか、恨みとか、そんなものもう無くなっていました!!!。

4月7日
4月28日
エコー検査を最後にすべての検査が終わりました。病名は膀胱癌でした。
覚悟はしていましたので以外と冷静に告知を聞くことができました。入院の準備をしてくれと言われましたが何故か断りました。
仕事の事を考えるとすぐに入院は無理だと考えたのです。入院は半年近くかかるとのことでした。

今まで苦労してやっと独立した事務所。これをどうするのか?収入が無くなるので生活のことも考えなくてはいけないし。
事務所内の防音スタジオや、多くの楽器、道工具、譜面や音源。これらをどうすればいいのか。

しかしあんまり考えている時間は有りませんでした。病気からしてやはり入院を一番先に考えるべきだ。
しかも入院希望者は3ヶ月待ちの状態だと聞かされていました。
病院に電話したところ「今空きのベッドはないがどうにかするのでまっていてくれ」と言われました。

その間事務所から自宅への引っ越しが始まりました。
スタジオはメーカーに安く買い取ってもらい、いす、机は生徒さんに使ってもらうことになり、譜面、音源は相棒の自宅に
運びました。
12月半ばでの引っ越しですが、翌年の1月末まで事務所を借りることにしました。

病院から連絡がきたのは4〜5日後でしょうか。ベッドが一つ空いたとのこと。
きがえ、洗面道具だけを持ち病院に向かいました。

2006 12月5日

年が明けた1月8日主治医から結果を聞いた。
しかし検査結果と治療計画を聞いた時から僕はかわった。自分の45年の人生のうちのここからの5ヶ月。
もしかしたら一番美しかったかもしれない。たとえ障害者としても生きていこうと。
生きるためにはどんな治療にも絶えるしどんな努力も惜しまない。

より積極的に生きようと決めた。

5年前の記憶はここで終わっている。
それからさらに5年経ったのか。。。。

恒例になった初夏の「看護の日コンサート」、年末の「お楽しみ会」での演奏もずーと続けている。
今年は(2006)12月14日(木)。
「年末お楽しみ会」が「クリスマスコンサート」と名前が変わったと連絡が入った。
いつも連絡を取り合っているのが、僕が入院した時の看護婦長さん。
今は部長に昇進された。
また当時執刀されたK助教授は教授となられた。
今年2006の「看護の日」コンサートでは名誉職としてその場で挨拶されていた。
演奏が終わった後教授から握手を求められた時は嬉しかった。

確実に時間が経っている。

k助教授に癌を宣告された時、死を覚悟した。
10年経ち教授となられたその方の前で今は演奏している。

また書いていこうと思う。
闘病記。

正月を家ですごし病院に戻った。
僕のベッドは海側にあり景色が素晴らしい。
後で考えるとこの景色に随分助けられた感がある。
病人にとっての環境は重要である。

年が明け再び入院生活が始まった。
今までは検査入院だった。
が新しい年からはいよいよ治療が始まる。

癌の告知を受けるまでは不安と恐怖で眠れる夜を幾度と無く過ごしたが、告知を受けたあとは意外にもさばさばしていた。

こうなったら今すぐにでも手術を受けたいという気持ちに変っていた。

主治医にこれからの治療計画を説明された。

12月6日

主治医からは丁寧な説明を受けた。
僕の社会復帰の為チームは最善を尽くすと先生は初めに言ってくれた。
そして今までの検査の結果、写真などを元に治療の説明が始まった。

僕は何故かうきうきしていた。
好奇心も働いていた。
冷静に説明を聴く事ができた。

以前にも医師から手術の説明を受けた事がある。
それは母の癌手術の説明だった。
彼女は直腸癌末期だった。
手術にも立ち会った。
必死だった。
ここも、あそこもと指差してこちらから先生に転移してるがん細胞を切ってくれと頼んだ。
立ち会う時失神するのではないかと内心心配していたが必死だった。
母はもっても半年の命と言われたがそれから2年もった。
弟と交代で看病した。

僕の話に戻そう。
治療方法は抗がん剤と手術。
癌を抗がん剤で小さくしてから膀胱を全部摘出する。
術後再び抗がん剤を使用する。
手術に費やす時間は12時間。
5ヶ月の入院が必要。
術後障害者となる。

大まかに言えば以上である。

やるしかない。
検査には時間が掛かったが、いざ治療となると早かった。
5ヶ月の入院で無駄な日は一日も無かったと思う。
何回も言うが検査の時期が一番辛かった。
検査のたびに癌ではないようにと祈るだけの病院通い。
暗く不安な時期だった。

待つよりも攻める方が心理的には楽なんだなとこの時始めて理解した。

抗がん剤治療は1月中旬から始まった。



2006 12月13日

明日14日横浜市大病院ホールでのクリスマスコンサートに出演する。
この病院を退院する時1時間のコンサートを行った。
退院する日が「看護の日」という事もあり、同病院の総てのスタッフに感謝の意味を込めて演奏した。
ピアノの林あけみが伴奏を務めてくれた。
その年の暮れ当時看護婦長だったSさんから演奏依頼の電話を頂いた。
喜んで年末のコンサートに参加させて頂いた。
それから年2回のコンサートを今まで続けている。
林は毎回の参加。
そして友人や生徒も今では演奏に参加してくれるようになった。
明日も生徒1人参加してくれる。
今回から「年末お楽しみ会」が「クリスマスコンサート」と名称が変わった。
明日は職員の合唱もあるという。
林はその伴奏も務めることになった。
精一杯演奏するつもりだ。


2010年1月29日
 
2006年12月13日で「闘病記」は中途半端に終わっている。
治療の続きを書く。
 
正月の一時帰宅が終わり本格的な治療が始まった。
それまでは検査入院だった。
本格的な治療は抗がん剤投与から。
これは先ず膀胱にできた癌細胞を小さくしてから膀胱全摘出手術をするという意味のものである。
 
この抗がん剤投与は多くの行程を伴っていた。
1日24時間非常に規則正しくその行程は進められて行った。
 
夜睡眠中ではあるが、時間が来ると筋肉注射を打たれた。
朝が来ると新たに点滴が始まる。
 
苦しい治療だった。
 
しかし、、、、。
 
僕は今でも覚えている。
医者からこう言われた。
「君は若い。我々チームはどんなことがあっても君を助ける」
 
勿論医師は全ての患者を助けようと努力している。
僕だけを特別扱いしてるわけではない。
それは分っている。
 
しかしその言葉にどれだけの勇気を与えられたか。
その言葉によって癌との戦いをあらためて強く決意した。
 
続ける。
 
抗がん剤治療だが皆が言うように大きな副作用はそれほどなかった。
髪や眉毛まで抜け落ちて行ったが食欲はあった。
吐き気もそんなに感じなかった。
 
医師は首をひねっていた、、、、。
 
2010年 1月30日
 
抗がん剤治療に伴う副作用の話は周りの患者から聞いていた。
各病室のベッド周りのカーテンが一日中下ろされているのはたいがいこの治療を受けている患者だった。
食事も殆んど手をつけないまま下げられていた。
実際僕も隣のベッドの人がこの治療を受けている時3度の食器の上げ下げを手伝っていた。
不思議な事に重病の患者同士は自然と仲間意識が芽生えてくる。
重病の患者は入院期間が長いということもあるが。
患者同士の体験からくる情報も入ってくる。
 
医者が首をひねったのは、僕にその副作用が強く見られなかったからだと思う。
後で聞くに僕には抗がん剤が効いていないのではないかという話がでたらしい。
 
癌の告知を受けた後のショックから立ち直り、癌と戦おうと自ら決意したその日から僕は食べた。
とにかく体力勝負だと思い食べた。
抗がん剤治療の始まる前は病院食を平らげた後、最上階のレストランでまた食べた。
抗がん剤治療中副作用が全くないということはなかったが無理をしてでも食べた。
 
体力もまだ相当残っていたのであまり副作用は出なかったのではないかと思う。
 
抗がん剤治療は2週間ぐらいかかった。
レントゲンに映ったその結果を見てびっくりした。
 
癌細胞が半分以下に減っていた。
 
話は前後するが手術後の最終治療に再び抗がん剤治療が行われるのだが、その時初めて副作用の凄さを経験することになる。