闘病記

2010年 2月1日                               前の記事はこちら
 
1回目の抗がん剤投与で癌細胞はかなり小さくなっていた。
暫くして医師からこれから行う予定の手術について聞かされた。
2月11日月曜日に手術を行うという事だった。
膀胱全摘出。
回腸の一部を切り取り摘出した膀胱の代わりとする。
回腸導管という手術方法だという。
所謂人口膀胱の手術。
既に僕は覚悟を決めていたがいよいよという緊張感も同時に湧いてきた。
実は同病患者から僕のこれから受けるべき手術の内容については前々から聞かされていた。
彼にとっては親切のつもりでも医師からみると余計なことだったらしい。
医師からは「既にわかっているみたいですが〜笑」という前置詞が説明の前に付いていた。
 
抗がん剤投与で消耗した体力回復の為に約2週間が設けられた。
ただ病院のベッドに横になっているだけだが、これも次の手術に備える為の意味のある貴重な時間だった。
そんなある日の夕食後たまたま降りて行った2階フロアでピアノの音が聞こえてきた。
そこにグランドピアノが置かれているのは知っていたがピアノの蓋が開いているのを見るのは
初めてだった。
曲はベートーベンのソナタだった。
どうやら患者が弾いているらしい。
僕はピアノのそばに近寄って行った。



2010年 2月3日
 
2階フロアに置いてあるグランドピアノからベートーベンのソナタが聞えてきた。
自然とピアノの方に足が動いて行った。
立ち止り邪魔にならない距離を保って聞いていた。
 
パジャマ姿の男性だった。
タッチは強く響きはしっかりしていた。
 
決められた時間枠があるのだろう。
ピアノを弾き終えたその男性に声をかけた。
若かった。
顔を見てぎょっととした。
顔には手術の傷がいくつかあり、打撲によるものと思える痣もあった。
 
彼は音大ピアノ科の音大生。
交通事故に遭い市大病院に運ばれて直ぐ手術。
最近の出来事だったので痣は残っているが幸いにもそれだけで済んだ。
ピアノの試験があるので担当医師と相談し許可を貰ってピアノを弾いている。
以上のような話をしてくれた。
 
僕も自分の音楽履歴と病気の事を喋った。
 
それから病棟は違うがお互いの病室を訪ね合う仲になった。
 
そして僕も担当医師にフロアで楽器の練習をしたいと相談した。
音が大きいので許可は出ないだろうと思っていのだが簡単に許可が下りた。
それには意味があった。


2010年 2月4日
 
夕食後の楽器練習許可が欲しくて医師に相談した。
その医師とのパイプ役が当時の看護婦長さんだった。
この婦長さんとは不思議な縁が今でも続いている。
 
医師はすんなりと許可してくれた。
その理由とは、
これから大きな手術を控えている身体にとって管楽器は呼吸訓練に最適である。
闘病生活のストレス解消にもなる。
ということであった。
 
実際大きな手術が控えてる患者には呼吸訓練用の器具が渡されていた。
それは息を吹き込むと先に装着されているプロペラが回転するというラッパに似た物だった。
あちこちで皆プロペラを回していた。
そのプロペラの回転数は生きたいという気持ちと比例しているように見えた。
反面全く訓練に意欲を見せない人もいた。
 
入院生活でも気の合う人、合わない人がいる。
僕達気の合う人間同士は重病にも関わらずプロペラを勢いよく回していた。
 
 
楽器練習は夕食後から消灯までの間。
病院管理室にも連絡をまわして頂いた。
 
僕は病院という環境を考え19時半から20時までと決めた、
多少時間は過ぎることもあったが自分で決めた枠を守った。
 
楽器もサックスだと音が大きいのでフルートで練習した。
 
久々の吹奏だった。
腹式呼吸を含め腹筋や背筋及び脳の使い方等、子供の頃から生活の一部だったものが
戻ってきたような気がした。
生き返った。
 
手術前まで練習は続いた。
 
実は手術後もう2度と楽器は吹けないだろうと覚悟していた。
腹筋を長く切り開くということが分っていたので。
僕にとっての音色や音量はこの鍛えた腹圧や背筋によって生み出されるものだと信じていた。
その大事な腹筋にメスを入れることで僕自身の音は失われる。
 
それでも良かった。
ただ命が欲しかった。
 

2010年 2月10日
 
夜のフロアでの練習が始まった。
夜眠れない人や病室を離れて下に降りて来る人が意外と多かった。
基礎的な練習が多く曲はめったに吹かなかったが、たまに曲を吹く時など気がつくと周りに何人かの患者がいた。
このことが退院後行うボランティア演奏のヒントになるのだが、その時はそんな余裕など全くなかった。
 
入院仕立ての頃、僕は若くしかも見た目は健康そのものなので同病室患者家族はすぐ退院するだろうぐらいに思っていたらしい。
周りは重病患者ばかりである。
家族にとっては軽度な病気にみえる僕はやっかみの対象にされた。
皮肉な言葉も掛けられたが気にしなかった。
それだけ家族にとって癌という病気はやるせなく重たいものだったのだろう。
 
病院というものは面白い。
患者同士の情報交換はひんぱんに行なわれる。
僕の情報もおそらく同室患者家族の耳に入ったのだろう。
しかもその病室で最も重い患者が僕だと気がついた時点で態度が変わった。
人間の心理ってこんなものだろう。
そんなことはどうでも良かった。
僕はただ自分自身が癌という病気とどう闘ったらいいのか、、、
それだけを考えていた。
 
8階病棟で前々から一人気になる患者がいた。
頭髪が抜けているので同じ治療を受けているのが予想された。
たまにその患者の廊下を歩く姿を見かける事があったが、いつも真直ぐの方向を見据え足早に歩いていた。
僕よりもかなり若そうだった。
その目は他の患者とは全く異なる鋭いものであった。


2010年 2月11日
 
気になるその患者については誰も詳しい事は知らなかった。
人と接するのを拒んでいるようだった。
 
一日一日と手術の日が迫ってくる。
不安ではあったが出来ることなら早く切って欲しいという気持ちの方が強かった。
 
 
僕が下のフロアで練習を始めた頃、例の音大生は退院して行った。
ピアノの実技試験日にも間に合う退院だった。
病院出口まで見送った。
 
交通事故としては比較的大きなものだったにも関わらず後遺症もなく短い入院で済んだ。
外科の患者は退院が早いなと思った。
 
彼は僕の退院後のライブに一回来てくれた。
嬉しかった。
今はどうしているのだろうか、、、、。
 
12月に入院。
年を越して2月に手術
すべて上手く行って退院予定は5月初め。
それを考えると長くもあるが、しかしここまでの時間は相当早く流れているように思える。
全く無駄なく予定通り治療が進んでいるのを感じた。


2010年4月28日

 
癌細胞で通常より2倍近く肥大していた膀胱も一回目の抗がん剤治療で相当小さくなっていた。
レントゲンで見るその違いに僕自身が驚いたほどである。
同時に希望も見えて来た。
「もしかしてこの闘いに僕は勝つことができるかもしれない」
 
結果が良く手術日も直ぐに決まった。
 
手術に関していろいろな説明を受けた。
僕は助かるためであれば全てを受け入れる覚悟はすでに出来ていた。
 
手術には12時間ほどかかる大手術であること。
出血が相当予想されるためあらかじめ多めに輸血用の血液を用意する。
術後障害者として生きて行かねばならないこと。
等など。
他に細かい説明も多くあったが記憶に残っているのはおおよそ上の3点である。
 
しかし開腹してみると思ったより状況は悪かったと後で主治医から訊かされた。
膀胱は癒着し切除する際に予想以上の大量出血となった。
前もって輸血用血液を多めに用意していたのが幸いした。
 
時間が前後する書き方となったが、手術日当日の3日前から落ち着きが徐々になくなってきた。
 
食事も手術前用の特別なものに代わった。
手術一日前は絶食。
手術当日泌尿科で腸を洗浄され安定剤等の薬を呑まされた。
朝9時移動ベッドで手術室に送られた。
家族や同室患者、泌尿器科の看護婦さんが見送ってくれた。
手術室に入り泌尿器科の看護婦さんから外科の看護婦さんに引き継がれた。
手術前日に説明に来てくれた外科看護婦さんだった。
担当ではないが、僕のサックスの生徒でもある麻酔科のI先生も時間を作って手術に立ち合ってくれた。
深謝!
 
麻酔科の手術決行のOKが出た。
麻酔をかけられて1秒もしないうちに記憶がなくなった。 
これほど抗がん剤とは強力なものかと改めて感じた。


2010年4月30日
 
麻酔科医の「数を数えて下さい」という言葉で1まで数えた記憶はあるがそれ以降は記憶がない。
朝9時に泌尿科病棟を出発して術後集中治療室に戻ってきたのが夜10時。
予定通り12時間の大手術だった。
夜10時という数字はあとで訊いた。
意識がうっすらと戻ってきた時最初に声を掛けてくれたのが主治医の先生。
「手術は成功しましたよ」
僕はゆっくり先生に握手を求めた。
その後意識がはっきりしてくるのに伴い腹部の猛烈な痛さも感じてきた。
痛めどめの麻酔が効かなかったらしい。
麻酔液を補充すると少し楽になり眠りに入った。
 
長時間口から鼻からチューブを入れられていた。
咳がでる。
この時腹部に激痛がはしる。
ではあるが結石の激痛ほどではなかった。
それとはまた異なる痛さ。
時期は花粉の飛び交い始めた頃。
これでくしゃみでもしたら腹部が開くのではないかと本気で心配した。
そのことを看護婦さんに言ったら笑われた。
集中治療室での2日目である。
この日家族から話を聞かされた。
途中手術室から先生が出て来たので様子を聴こうとしたらピリピリした空気でそれどころでは無かったという。
多分その時膀胱の癒着が見つかり予想外の状況下だったのではないかとあとで知った。
 
咳は少なくなっていた。
くしゃみも1〜2回出たぐらいでそう心配することもなかった。
これは普段腹式呼吸による楽器吹奏の訓練の賜物ではないかと考えた。
術創からは大量の水がしみ出ている。
定期的に術創の消毒としみ出た水がしみ込んだガーゼの取り換えが行われた。
 
これで治療の大きな山が過ぎたわけだがまだまだ安心出来なかった。
摘出した臓器から転移の可能性を調べるのだ。
検査に1週間かかる。
これが勝負の分かれ目だなとベッドで考えた。


2010年 6月16日
 
集中治療室にいる間勿論口経では食事や水は採れない。
頭の上に枕ほどの大きさの袋がぶら下がっている。
その袋から管が伸びその先は針になっていて僕の首に走る血管に直接栄養を注入する仕組みになっている。
枕ほどの大きさの袋に僕が生きていくうえに必要な栄養が入っている。
 
集中治療室に入って4日目の朝。
「そろそろここを出ましょう」と看護婦さんに言われた。
「えっ!?」
他に何か言おうとしたがおかまいなしに起こされた。
 
12時間の手術。
腹の中の臓器はあちこちメスで切ったり張ったりしてある。
そんななか4日目に歩いていいのか、、、、?
ここから元の4人部屋までは30メートルぐらいあるぞ、、、、!
看護婦さんはただ「大丈夫!」としか言わない。
 
ただこの集中治療室から早く出たいと看護婦さんに昨日喋ったのは確かである。
なるほど、そういうことか。
 
栄養袋と点滴液がぶら下がった点滴台を杖にガラガラそれを引きずりながら4人部屋に
戻った。
看護婦さんに支えてもらってはいるがほぼ一人での作業だった。
 
30メートル歩くのにどのくらいの時間がかかったのだろうか、、、、
覚えていない。
 
4人部屋病室に入り「帰ってきました」と挨拶してから自分のベッドに横になった瞬間気絶した。
 
 
 
 
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