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CONGO SAXOPHONE STUDIO

 

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(2002年3月20日~2010年6月16日まで)
暫く闘病記お休みしていますが元気です。
レッスン リペア、演奏と積極的に活動させて頂いています。
皆様に感謝です。
ありがとうございます。







2011年4月27日
この日誌の更新前が昨年の6月、その続きになる。
発病’1997年)してから10年以上経つがあの入院治療の半年間の記憶は未だに強い。
それほどの体験だっった。

自力で集中治療室から元の病室に戻った瞬間意識を失ったところまで書いた。
意識が戻ったのは何時だったのか、、、、。
ベッドの横には腹部からホースで繋がれた袋が下がっている。
集中治療室に運ばれてきた時もそうなっていたのだろうが、今改めてその袋を見てそれが人工膀胱だと確認する。
周りの同病の先輩諸氏もその袋をぶら下げて歩いているところを日常で見ていたので別に何の感慨もなかった。
袋に溜まった尿は真っ赤で、これもいつも見慣れている血尿。
慣れとは恐ろしい。
たとえ血尿だろうと流れていてくれれば良い。

手術による腹部の傷はまだ痛かったが、しかしそれも徐々に薄れていった。
毎日看護婦さんと担当医師が傷口を調べにくる。
体液があふれ出ていてガーゼがびしょびしょになっている。
傷口の消毒とガーゼの交換。
これが暫く続いた。

食事はまだ経口からとれず点滴で栄養をとっていた。
ただ睾丸がものすごく痛かった。
ここもメスを入れられている。
睾丸炎になっていた。
あらゆる雑菌にとってもっとも栄養のある魅力的な場所だと担当助教授から教わった。

腸も切っている。
食事はおならが出てからと言われた。
それから絶えずおならを気にしながらの数日たったある日、ついにその日は来た。
かすかではあるがついに来た。
腸が繋がったのだ。
看護婦さんに伝えた。
「おならでたよ」
「あらっ~よかったね」
お互いどのような顔しての会話だったのか、、、、
この入院している環境では、そんな日常のなにげない体の変化にも敏感になっている。

おかゆがでた。
一口すすって暫くすると妙な力が湧いてきた。
経口で取る栄養の力とは凄いものだ。
たとえ水粥だろうと力が湧く。

それから一週間ぐらいで普通食になった。

しかし僕には人生で最大の鍵を握るある報告を待っていた。
地獄か天国か。

それは転移に関する検査結果だった。



2011年4月28日

術後摘出した臓器から転移の有無を調べる生体検査には1週間~10日程かかると言われた。
今はわからないが、当時は入院している横浜市大医学部病院から金沢大学へと検査が持ち込まれていた。

転移と言う言葉にはことさら僕は敏感だった。

母も癌だった。
弟と僕がまだ20代の頃だったが、最後は兄弟で病院に泊り込んで看病した。
その母の手術に立ち会った時、癌細胞が広く飛んでいた。
素人の僕でも癌細胞だけは正常な細胞と違ってその色で見分けがついた。

結果、母の命はもって半年と言われた。
なるほど、、、、
無数に転移している状態をこの目で確かめるに、それもいたし方ないことだと思った。
しかし、、、

母はそれから一年半生きた。

最後医師に「運が悪かった」と言われた。

今までそれは転移のことだと思っていたのだが、、、
最近「運が悪かった」というあの時の医師の言葉の意味は、、、、

母は直腸癌だった。
最初に診て貰った医師は町の内科医。
執刀した医師から見れば直腸癌を見分けるのは容易いことだったのではないか、、、

それが「運が悪かった」との言葉に最後なったのではないか、、、、。

とにかく癌における転移については、

母の看病で転移がどれほど恐ろしいことなのか分かっていた。

逆に転移がなければこの闘い、俄然僕が有利になる。

まだ栄養を点滴で取っていた頃だろうか。
流石に具体的な日にちは忘れた。
担当医が昼間突然表れた。

転移についての結果が出たと言い、素早くしかもそっけなく言った。

「大丈夫です」

僕は担当医に握手を求めた。

手術室から帰り集中治療室に移されて麻酔が覚めた時にもその担当医はいてくれた。
「手術は成功です」
その時も握手を求めた。

今回2回目の握手。

嬉しかった!!
ほんとに嬉しかった。

勝てるかもしれない。
つまり、
死なないかもしれないと強く思った。

生きられる、ではなく死なないかもしれない。
である。

それほどこの何ヶ月かは死を意識していた。



2011年9月1日

転移していないことを告げられたその日から世界ががらりと変わった。
嬉しかった。

術後の傷口から出る水もすくなくなってきた。
点滴はあいかわらず続いていた。
血尿もまだ続いていた。

時間が経ち抜糸が終わり、尿管に入れられていた管も抜かれた。
管を抜く時主治医は自らの手首を何回か動かしていた。
準備運動のようだった。
その準備運動が終わるや否や体内に仕込まれていた管を一気に抜いた。
その瞬間ベッドに横たわっているにも係わらず腰が抜けるような感覚に陥った。
翌日
 尿をみるとほとんど出血は止まっていた。

尿が赤いのが年を越しても当たり前だったのが普通の色になっている。
この当たり前のことが嬉しく、この当たり前のことに感謝した。

気がつけば病室では僕は古株になっていた。
入院生活ではほとんど各病室の患者の顔は知っていたが一人、また一人と退院していった。
そして重病と思われる人達がすぐ入ってきた。
知り合った人たちもほとんど退院していった。
ただあの眼光鋭い若者だけはたえずマスクをして時々通路で遭うことがあった。
軽くお互い挨拶をするだけで一言も声を掛け合うことはなかった。


3月から4月になろうとしていた。
点滴治療も暫くお休み。

朝起きると病室の窓際に歩みカーテンを開ける。
他の寝ている患者に迷惑のかからぬようそっと静かに開ける。
いつものように海が直ぐそばに見える。
青く広がっている。
大型船が向こうに動いている。
そのさらにさらに向こうは太陽が昇り始めたばかりで眩しいくらいだ。


朝一番で採血してもらう。
これが毎日続く。

それから8階の病室から1階の売店に行く。
まだ売店は閉まっているが新聞は自動販売機で買える。
2階のホールで柔軟体操をして新聞に目を通す。
ホールにはまだ誰もいない。
グランドピアノの横が定位置。
そこから外を見るとモノレールが走っている。
ホールから見ると真ん前が「市大医学部病院前駅」
朝が早いのでモノレールから降りて来る人はまだ少ない。
このホールもあと2時間ぐらいすると外来患者でごったがえす。

病室に戻り洗面を済ます。
隣のベッドの人が起きている。
その人に読み終えた朝刊を渡す。

それから朝食。

そして朝の回診。
週に一度教授の回診。

問題なく治療は進んでいるとのこと。

暫くは点滴もなく自由な身でいられる。

桜が病院のまわりでは咲いている。
一人花見と、、、、
外にでる。
時には海まで10分かけて散歩に出る。

そして階段を使い弱った足腰の運動に励む。

この幸福。

、、、、。

この幸福が暫く続いた。

しかし第2の抗がん剤治療がその後待っていた。



2011年9月2日

12月の検査入院から年を越して桜の咲く4月になっていた。
苦しい闘いではあったが希望を持ち毎日の治療に励んできた。
医師や看護婦さんにも恵まれた。

僕自身出来ることは精一杯やった。
精神面と肉体面での強化に努力した。
手術や抗がん剤治療の前にはできるだけ食べた。
一日差し入れも含め4食摂った。
病院から出る夕飯を終えた後、最上階のレストランに行き2回目の夕食。

夜は許可を得てホールで楽器の練習をした。
呼吸器のさらなる訓練と精神的な安定の為だった。

結果12時間の手術にも耐えることができ、肺へのダメージも最小で済んだ。
手術後は10キロ以上体重が減った。
これを見越しての術前の栄養補給だった。

手術や抗がん剤治療で足腰が当然弱る。
エレベーターを使わず非常階段を8階から1階まで何往復もした。
広い病院内をひたすら歩き回った。
他の科まで行くこともあった。
病院内は十字に設計されていた。
海を見、そして逆方向からは富士山を見ることができた。
朝は海。
夕は富士山を何回も見に行った。

朝は6時に起きホールで柔軟体操。
桜の咲く頃は誰も病室から出ない中僕だけスポーツシューズで外へ出た。
4月初めはまだ寒い。
病院の広い庭には桜の木が植わっていた。
一人花見としゃれ込んだ。

来年はパジャマ姿ではない花見をしたい。
その姿をイメージして病院の桜を眺めた。

病院での古株は僕と眼光の鋭い若者2人になっていた。
この若者については多少耳に入ってきていた。
肺のほうに転移しているとのこと。
そしてあらゆる種類の抗がん剤を使用して懸命に治療に励んでいるとのこと。

彼が時々無菌室に入るのも知っていた。

でも大事なのは他人のことより僕自身だった。
手術して1月後の病院ホール内での楽器練習。
これは前回の楽器練習とは違い復帰の為の練習に変わっていた。

しかしその練習はさんざんだった。
最初に吹く音は1秒も持たなかった。
腹筋を切った為か、、、
吹いた瞬間激痛で座り込んでしまった。
復帰に不安が過ぎった、、、。



2011年9月3日

術後1月ほど経ってから主治医の勧めもあって病院2階ホールでの練習を再開した。
命が救われたということで満足していた僕は音楽に対してはややその情熱が薄れていた。
と言うかこの闘いにすべてのパワーを使い切っていた。

夜7時半久々にフルートを持って2階のホールに下りていった。
楽器を組み立て息を入れた瞬間、腹全体に激痛が走った。
痛さの震源が無数にあるような感覚の痛さだった。
無数の点の痛さ。
あまりの痛さにうずくまってしまった。

不思議なことにうずくまった瞬間何かに火がついた。
暫く薄れていた感覚。

練習。

楽器をしまってその日は病室に戻った。
そして冷静に考えた。

あの痛さは何処から来るものなのか、、、
おそらく腹の中はメスが入りまくっているのでその傷からくる痛さではないだろうか。
普段日常生活では痛さは感じないが、楽器を吹く時の腹圧は相当大きい。

時間が解決してくれるかも知れない。
しかし、、、
もしそうでなく、一生楽器が吹けなくなったとしたら、、、
2つの想いが交差した。

明日からもう一度やってみよう、、、。

翌日も同じだった。

数日後椅子に座って吹いてみると、5秒ぐらい音が続いた。
5秒後に痛さを感じたのだが我慢できる範囲だった。

これだったら車椅子での演奏でも可能なのではないか。
そう思った。
演奏できるなら車椅子でもなんでも構わない。

今まで癌との闘いに総てのパワーを使っていたが、今度は音楽に対してシフトを完全に換えた。

中学生の頃を想いだした。
学校の部活を終え夕食を摂ってから近所の公園で深夜まで練習した頃のこと。
面白くなってきた。

ただ早くしないと次の抗がん剤治療が待っている。

そんな中で徐々に吹奏時に感じる痛みは減ってきていた。
練習を始めて2週間後には痛さは殆ど感じなくなっていた。
それから数日後、立奏においても痛さはほとんど感じなくなっていた。

腹の中の傷が落ち着いてきたに違いないと思った。

この段階で僕はある企画がふと浮かんだ。

ほとんど演奏には問題ないところまできた。
あとは体力作りだと考えている内に最後の治療が始まった。

それは顕微鏡的な範囲での癌細胞を殺す為の抗がん剤治療。
最初の抗がん剤では皆が言うような強力な副作用は出なかった。
故に看護婦さんたちも抗がん剤が効いているのか不安な様子だった。

実際は物凄く効果があった。

そんな訳で抗がん剤の副作用は気にしていなかった。
ところが今回そうはいかなかった、、、、。



2011年9月6日

記憶中の時間が2週間ぐらいずれたようだ、、、。
4月の花見をして抗がん剤治療が始まった

手術の痛みは忘れたけど、抗がん剤副作用のひどさは忘れない。
こんな話を周りからよく聞かされた。

実際抗がん剤治療の始まった患者のベッド周りはカーテンで覆われていた。

手術前癌細胞を小さくする為の抗がん剤治療ではあまり副作用はなかった。
髪の毛が抜け落ちるぐらいで、吐き気や頭痛はなかった。

ただこの治療が始まると定期的に点滴やら筋肉注射を24時間単位で受けねばならない。
おおよそそれが2週間ぐらい続く。

抗がん剤治療が始まった。
やはり周りの患者が殆ど吐き気や頭痛を感じるのに対して僕だけは何も副作用は起きなかった。
1回目の抗がん剤治療と同じく時間の拘束はあるが今回も無事に終わるだろうと一人思った。
1週間ぐらいたったある日エレベーターに乗った。
普段は階段だが点滴台を曳いていた為エレベーターを利用した。

エレベーターが作動し始めた瞬間、目まいを起こし腰が抜けてしまった。
点滴台にしがみつき途中から病室に戻った。

ここから今まで経験したことのないような事が起きていった。


目まいの原因は貧血だった。
毎朝の採血でその数値は下がる一方だった。
あわせて毎日続く吐き気、そしてしゃっくり、頭痛。
食事は取れなく水ばかり飲んでいた。

僕もベッドの周りをカーテンで締め切った。


看護婦さんも慣れたもので「食べたくなければ食べないでいいよ」と言っていた。
朝体温と食事の採り具合を調べにくるのだが、3日間ぐらい朝昼夜3食×が続いた。
貧血もひどくこれ以上進むと輸血の必要があるといわれた。
ただ医師は輸血にはあまり積極的ではなかった。
ベッドの中では動けず、意識も朦朧としていた。
それでも毎日抗がん剤投与と流しと言われる点滴とが続いた。

抵抗力も弱まり無菌室に一度運ばれた。

採血の結果数値があとコンマ単位まで落ちると輸血と言われた翌日から数値が上がりはじめた。
治療も7割ぐらいのところまできていた。

毎日が酷い二日酔いのような感じだった。

副作用の山を越したあたりから食欲も少しずつ戻ってきた。
治療最終日。

「これが最後の点滴です」と言われたあの時はほんとに嬉しかった。

退院が現実のものになってきた。

抗がん剤治療が終わり体力回復の日が10日ばかり続いた。

体力が回復した時点で医師の許可がでれば退院できる。

4月も終わろうとしていた。

去年の12月から数えて5ヶ月が過ぎようとしていた。


2015年3月28日

前回の記事が2011年、随分時間が経った。
丁度周りの桜の木が好い具合に花を開いてきた。
あれから17年経っているのに、
入院中病室を抜け出し一人病院内庭園の桜の花を観に行った事をしっかり覚えている。
この時期桜の花を見るたびに思い出す。

抗がん剤治療の副作用お収まり、夜の練習でも8割ぐらいの感じで楽器が吹けるようになってきた。
体力の回復が確認されていよいよ退院の日取りの相談が始まった。

五月第一週の大安を希望したのだが、五月はナイチンゲールの生誕月。
この月のどこかに看護の日の院内イベントが開かれるという。
そこで僕は看護婦長さんに、病院でお世話になった気持ちとして看護の日に少し演奏させて欲しいと申し出た。
病院ホールにはグランドピアノお置いてある。
婦長さんは「それでは教授、病院関係者に聞いてあげる」
と、言ってくれた。
数日して許可がおりた。

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